異論耕論ときどきイクスカーション

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。そんな人の世だけれど、それでもなお、を貫いてみる。

【第2回】この惨状は、覚悟しなくてはいけないのか

シリーズ:今だから話そう、大震災のあの時あの現場


 釜石、気仙沼小名浜、そして仙台。次々と中継される津波の映像に、私は涙をこらえきれなかった。釜石の魚 市場の真裏には、とてもお世話になってきた豆腐屋さんがある。でも、帰省したときに訪れるのが常だった2階の 美容室まで、もはや海の下だ。ついこの間、世界一と胸を張る防波堤ができていたはずなのに。何で、どうして。 私は、目の当たりにしている現実と、頭で理解していることとのギャップにひどく困惑していた。
 三陸特有のリアス式海岸を形づくっている狭く入り組んだ湾は、それぞれの向きが微妙に異なっている。それが 震源に向かっているか否かによって被害の明暗が分かれてきたのが、この地方の津波の歴史だ。そうした運不運に 頼らぬために、防潮堤や防波堤も十分に整備されてきたはずだ。なのに、この津波はテレビを見る限り、どこの地 域にも尋常ではない高さで押し寄せてきている。速報で伝えられる波の高さは何の気休めにもならない。映されて いない地域の状況を正確に表してはいないことも明らかだ。これじゃ、もうダメだ。口をついて出た言葉に、周囲 の空気がこわばった。
 あの時の私は、まわりからどのように見えていただろうか。いま振り返ると、口を閉ざすとこらえきれなくなり そうで、手近なところで何かしていたかったのだろうと思う。交通機関の復旧は不透明だから、家が比較的近い人 は夜が遅くなる前に歩いて帰ろう。この混乱の中で女性ひとりは危ないから、できるだけ家の近くまで男性職員と チームで行くようにしよう。ここで夜を明かす人も出るだろうから、1Fのローソンで買い出しをしておこう。防 災担当からの指示を待たずとも間断なく判断し行動する、「できる仲間」に囲まれていることが、何よりの心の支えだった。
 気がつくと、外はすっかり暗くなっていた。オフィスを見渡すと、残っているのは非常勤職員や民間から任期付 職員として採用された者がほとんど。といっても、防災に直接関係のない部局に特別の情報が入ることはないし、 直接携わるべき仕事があるわけでもない。複数のチャンネルを同時に見られるようにテレビを設営し、ネットを見ながら時間をやり過ごしていた。おそらく日本テレビだっただろう、そこに大船渡の惨状が映像とともに伝えられ た。覚悟しなくちゃいけないのか。故郷への電話は一向につながらなかった。
 22時過ぎ、有楽町線が一部復旧したとの情報で自宅に戻ることにした。心配していた液状化や建物の被害は、駅 構内に水が流れ出ていた程度で、暗いこともあってかそれほど見当たらない。家に入るのと前後して、京都の友人 から「京都府警の広域緊急援助隊と京都第一日赤のDMATが岩手に向かっている」という連絡が入る。この初動 は極めて早い、さすが鍛え抜かれてきた部隊だ。内陸部の道路や橋もどうなっているかわからないから、気をつけ て、でも一刻でも早く現地に到着して欲しい。そのメッセージを送ったところに、官邸から電話が入った。(続く)

 

(初出:2013年11月11日 PHPオンライン衆知、一部加筆・修正し掲載)