異論耕論ときどきイクスカーション

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。そんな人の世だけれど、それでもなお、を貫いてみる。

東京2020開幕日、開催を目的化したことが招いた大会の危機

いよいよ、東京オリンピック2020大会が開幕します。無類のスポーツ好きで、ついには仕事のひとつとなった私にとっても、純粋に待ち焦がれた大会でした。錬磨を重ねて頂点をめざす選手たちのパフォーマンスに酔いしれ、努力の陰にある人生の悲喜こもごもに触れて涙し、我がことのように応援してきたチームや選手の活躍に歓喜する日を、本当に楽しみにしていました。 COVID-19(新型コロナウイルス)が世界的にまん延する前までは。


この大会が近づくにつれ、組織委員会や政府(国や都)には、3兆円以上とも言われる巨額の公費を投入したにも関わらず、オリンピックを通じて実現したい理想や表現したい価値が特にあるわけでもないのかと疑いたくなるような、大会を開くことだけが目的化しているのではないかと思われるような事態が相次いでいます。


そもそも、2016年大会招致の際にうたわれ、2020年大会にも引き継がれたはずのコンパクトな大会というコンセプトは、いつの間にか何処かへ消え去っていました。2020年大会招致で唐突に打ち出された復興五輪という位置づけは、大会ビジョンや開閉会式のコンセプトの何処にも見当たらず、一部競技が開催されるほかに何らのメッセージも見出せません。多様性と調和はオリンピック精神そのものであり、戦後日本及び高度経済成長後の日本の挑戦そのものであったはずなのに、それが形骸でしかなかったことが大会準備を通じて次々と顕わになってしまいました。


何より、「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証しとして、完全な形で東京オリンピックパラリンピックを開催する」ために大会を1年延期し、時間を稼ぎつつ感染対策と大会準備の両面で万全を期すはずだったのに、開幕直前の現在は両面ともに惨憺たる状況を呈しています。


政府は、甘い見通しと根拠に基づかない(というより手前勝手な都合のよい解釈の)対策方針で何度も後手を踏み、その場しのぎの言い訳と強弁を繰り返し、大会期間中に過去最悪の感染拡大をもたらそうとしています。それはそれで問題なのですが、最も卑劣なのは、「大会の開催を通じて得られる価値が国民生活や将来の日本にとって重要なものであり、そのために耐え難きを耐えて感染対策に全集中してもらいたい」と、国民に対して正面から向き合わなかったことです。


この大会にそれだけの価値はないと見做しているのであれば、中止や再延期を検討すべきだったのに、そういう立場は取らない。かと言って、国民みなと共有する価値を明快に訴えかけることも出来ない。オリンピック優先と批判されることを恐れてか感染対策は中途半端になっても開催方針は譲らず、それがアスリート優先だとして批判の矛先が選手に転じると国民に自制を求めるのみ。結果として、大会への不信感や忌避感を増幅し、無観客開催を避けられず、過去最悪のオリンピック大会へと貶めようとしている。すべては、詭弁と逃げ口上で自らを正当化することにのみ執心してきた、政府の失敗に他なりません。この段に至ってもなお、選手や関係者はもとより、国民に対してお詫びの一言も発せられないのは、政治の無責任さの極みと言っても過言ではありません。


大会準備においても、直前まで不祥事が相次ぎました。大会運営の堅実さや規範意識の高さは日本(人)の特質であり、国際的一大イベントを開催する際などには信頼を集めてきたものですが、もはや過去のものでしかないようです。というより、そうした日本(人)的特質というものも、振り返ってみれば軍隊的な上意下達や問答無用のパワハラ体質、はみ出すものは村八分にし出る杭は打つというムラ社会体質が生み出した、瞬間的なあだ花でしかなかったのかもしれません。多様な存在を認め合い、それぞれの能力をいかんなく発揮し、高い次元で調和の取れた日本社会を世界に知らしめるどころか、この大会準備を通じても単なる大義名分にしか過ぎなかったことが露呈しただけなのかもしれません。本当はそうじゃないんだ、と胸を張って言い返して欲しいところなのに。


こうしたことの背景には、手段の目的化や思考の短絡化があるように思われます。東京2020大会では、「スポーツには世界と未来を変える力がある」という大会ビジョンを高らかにうたっています。ですが、スポーツを「すれば」、大会を「開催すれば」、すなわち「世界と未来が変わる」というわけではありません。ところが、ことスポーツ界においては、健全な肉体には健全な精神が宿るという例えよろしく、スポーツをすれば規範意識が高まるとか、他人を思いやる心が育まれるとか、誇大妄想に蝕まれているのではないかと首を傾げたくなる事案に遭遇することもしばしばです。本来であれば、そこには適切な働きかけや関わり方、分析や方法論があるはずなのに、論理をジャンプして当然視する。スポーツ界において陥りがちなそうした罠に、政府も、組織委員会も、多くの大会関係者もはまり込み、大会を開催しさえすれば開催の意義は達成される、なかんずくオリンピック精神もあまねく浸透すると思い違いをしている(そう思わないとやってられないのかもしれないが)と感じられてなりません。


気の毒なのは、大会出場をつかみ取った選手と、その選手を支えてきた家族や関係者の方々です。自らの感染防止に努めつつ、日本国内の感染対策や国民感情にも留意し、さまざまに制約された環境下で最高の準備をすることは通常の大会よりもはるかに困難で、さらに無観客開催が難易度を増すところもあると思いますが、それらを乗り越えてベストパフォーマンスを発揮されることを切に願っています。と同時に、「開催してくださったことに感謝します」という決まり文句にとどまらず、自らの言葉でメッセージを発することを期待しています。最後まで勝利をつかもうと諦めずに努力を重ね、時には心が折れそうな自分自身を奮い立たせ、窮地に立たされてもフェアプレーに徹する、そうした選手だからこそ達することのできる一種の境地がまさにスポーツの価値そのものであり、そうした選手であればこそ世界と未来を変える力を言葉に紡げると思うからです。そんな選手たちの奮闘を無に帰すような残念な大会にならないことを、今となっては祈るばかりです。

東京オリンピック・パラリンピックの開催可否はレガシーでこそ語れ

東京オリンピックパラリンピック大会の開催が揺れている。言うまでもなくCOVID-19(新型コロナウイルス)の世界的な流行によるものなのだが、日本政府の感染対策への不信感から大会遂行能力に疑いの眼が向けられ、不透明感が増幅している。加えて、「何がどうあっても開催してみせる」という強い信念が、国民生活に犠牲を強いるかのような言動・行動となり、アスリートファーストという理念への誤解も招き、とりわけ国内の不信感に拍車をかけていることは間違いない。

 

主催者であるIOCはもとより、組織委員会をはじめとする大会関係者が、オリンピック・ムーブメントの頂点である大会開催に向けて奔走することは理解できる。熾烈な招致競争を勝ち抜いて(その過程では疑惑が指摘されているものの)開催地となった東京都や国が、その存在価値に陰りを落とすような最悪の事態は避けねばならないという思いも、わからないでもない。

 

だとするならば、間に合わせの感染対策で強弁するのではなく、「東京2020大会は、単に2020年に東京で行われるスポーツの大会としてだけでなく、2020年以降も含め、日本や世界全体に対し、スポーツ以外も含めた様々な分野でポジティブなレガシーを残す大会として成功させなければいけません。」とした原点に立ち返り、その考えを体現する大会が開催可能であることを、事実をもって説明すべきだ。現在の組織委員会と東京都には、そうした点で国民・都民と積極的にコミュニケーションをとりながら、理解と機運醸成を図るという姿勢が欠如している。

 

オリンピック憲章では、オリンピック・ムーブメントにおけるIOCの使命と役割の一つとして「オリンピック競技大会の有益な遺産を、開催国と開催都市・地域が引き継ぐよう奨励する。」と掲げている。これに基づき、開催都市にはオリンピック・レガシーを考慮した招致計画が求められ、東京都と大会組織委員会はそれぞれにレガシープランを策定し、大会前からさまざまな主体によって取り組みが推進されてきた。

 

ところが、東京都オリンピック・パラリンピック準備局のWEBサイトの「2020年に向けた東京都の取組-大会後のレガシーを見据えて-」を見てみると、2018年2月のPR版(増刷版)の掲載以来、更新されている様子がない。同様に、大会組織委員会のWEBサイトの「アクション&レガシー」ページでも、2019年7月のアクション&レガシープラン2019の掲載以来、何らの情報提供も行われていない。「計画づくりには熱心だが、ターゲット&ゴールは必ずしも明確ではなく、実施評価は曖昧なままやり過ごされる」のは、日本の行政組織によく見られる悪癖の一つだが、オリンピック・レガシーも開催の方便でしかなかったのではないかと勘ぐりたくなるような状況である。

 

問題なのは、開催が延期されたこの1年間に、新型コロナウイルス感染拡大を乗り越えて取り組まれてきたアクションとその結果が外部からは全く不明で、既に開催をあきらめて何もしていないかのように受け取られてしまう愚を、自ら冒していることにある。確かに、アクションの実施そのものが困難であったかもしれない。それでも、例えばコロナ対策下でも実施に至らしめた努力と工夫は、おそらく大会後にも続くであろうwithコロナのライフスタイルにおいても有益な遺産となり得たであろう。だが、都や組織委員会等がそうした点に注意を払いながら機運醸成を図り、開催実現に向けて知見を集積させてきた形跡はほとんど見られない。

 

大会と前後して取り組まれる予定だった関連プログラム等についても同様に、実施可否とその意義の達成水準について、ほとんど明らかにされていない。例えば、オリンピック村の開村から閉村まで催されるはずの文化プログラムは、どの程度可能なのか。事前合宿等のホストタウン事業は、相手国の事情もあって困難さが増しているなかで、それでもなお交流の価値を創出するためにどれだけの労力が傾けられているのか。重要なのは、そうした過程を見えるようにしながら理解と支援を求めることだと思われるのだが、必ずしもそうなってはいない。

 

ただでさえハードルの高い開催実務に加え、大会延期と新型コロナ対策の影響により、それどころではないという状況もよくわかる。だが、3兆円を超えるとも言われる公費を投入している東京大会だからこそ、国民生活そのものが1年半前からは激変しているからこそ、そうした現在だからこそ国民に対してオープンに、積極的なコミュニケーションを取ることが望まれる。それも、従前通り結論が出てから決定事項として報告するのではなく(それでは機を逸する)、ターゲットとゴールを明らかにしつつ進捗と実現可能性を客観的に説明し、残されたわずかな時間のなかで最大限の理解と信頼を得ていくことが重要だ。仮に、これまでの想定はともかくとして、大会を開催してもなおレガシーの形成が十分には図られない(ハードは既に整備されているから、開催するか否かには影響されない)のならば、開催返上もやむを得ないだろう。

 

どのような新型コロナ対策を講じれば開催できるかという点にばかりに焦点を当て、いきおい縮小均衡の考え方に陥ってオリンピック・レガシーの形成・継承という価値が毀損してしまっては、大会の開催そのものを危うくするばかりか、例え開催にこぎ着けられたとしても失敗のそしりを免れない。皆に祝福される大会を待ち望んで来たアスリートの努力と将来を思えばこそ、実現し得るオリンピックの価値とレガシーをもって、国民に向き合って欲しい。

 

なお、日本政府の新型コロナ対策そのものが開催リスクとなっている以上、その立て直しが喫緊の課題であるとともに開催のための必要十分条件であることは言うまでもない。

(念のため、本稿はあくまで個人の見解であり、所属する組織等とは一切関係ありません。)

【第2回】この惨状は、覚悟しなくてはいけないのか

シリーズ:今だから話そう、大震災のあの時あの現場


 釜石、気仙沼小名浜、そして仙台。次々と中継される津波の映像に、私は涙をこらえきれなかった。釜石の魚 市場の真裏には、とてもお世話になってきた豆腐屋さんがある。でも、帰省したときに訪れるのが常だった2階の 美容室まで、もはや海の下だ。ついこの間、世界一と胸を張る防波堤ができていたはずなのに。何で、どうして。 私は、目の当たりにしている現実と、頭で理解していることとのギャップにひどく困惑していた。
 三陸特有のリアス式海岸を形づくっている狭く入り組んだ湾は、それぞれの向きが微妙に異なっている。それが 震源に向かっているか否かによって被害の明暗が分かれてきたのが、この地方の津波の歴史だ。そうした運不運に 頼らぬために、防潮堤や防波堤も十分に整備されてきたはずだ。なのに、この津波はテレビを見る限り、どこの地 域にも尋常ではない高さで押し寄せてきている。速報で伝えられる波の高さは何の気休めにもならない。映されて いない地域の状況を正確に表してはいないことも明らかだ。これじゃ、もうダメだ。口をついて出た言葉に、周囲 の空気がこわばった。
 あの時の私は、まわりからどのように見えていただろうか。いま振り返ると、口を閉ざすとこらえきれなくなり そうで、手近なところで何かしていたかったのだろうと思う。交通機関の復旧は不透明だから、家が比較的近い人 は夜が遅くなる前に歩いて帰ろう。この混乱の中で女性ひとりは危ないから、できるだけ家の近くまで男性職員と チームで行くようにしよう。ここで夜を明かす人も出るだろうから、1Fのローソンで買い出しをしておこう。防 災担当からの指示を待たずとも間断なく判断し行動する、「できる仲間」に囲まれていることが、何よりの心の支えだった。
 気がつくと、外はすっかり暗くなっていた。オフィスを見渡すと、残っているのは非常勤職員や民間から任期付 職員として採用された者がほとんど。といっても、防災に直接関係のない部局に特別の情報が入ることはないし、 直接携わるべき仕事があるわけでもない。複数のチャンネルを同時に見られるようにテレビを設営し、ネットを見ながら時間をやり過ごしていた。おそらく日本テレビだっただろう、そこに大船渡の惨状が映像とともに伝えられ た。覚悟しなくちゃいけないのか。故郷への電話は一向につながらなかった。
 22時過ぎ、有楽町線が一部復旧したとの情報で自宅に戻ることにした。心配していた液状化や建物の被害は、駅 構内に水が流れ出ていた程度で、暗いこともあってかそれほど見当たらない。家に入るのと前後して、京都の友人 から「京都府警の広域緊急援助隊と京都第一日赤のDMATが岩手に向かっている」という連絡が入る。この初動 は極めて早い、さすが鍛え抜かれてきた部隊だ。内陸部の道路や橋もどうなっているかわからないから、気をつけ て、でも一刻でも早く現地に到着して欲しい。そのメッセージを送ったところに、官邸から電話が入った。(続く)

 

(初出:2013年11月11日 PHPオンライン衆知、一部加筆・修正し掲載)

【第1回】この地震はまずい、頼むから逃げていてくれ

シリーズ:今だから話そう、大震災のあの時あの現場

 

 2011年3月11日。

 あの日、中央合同庁舎4号館8階にある行政刷新会議事務局では、NHKの国会中継を見やりながら菅内閣の先行きを案じていた。参議院の決算委員会において総理の外国人献金問題が取り上げられ、審議が大荒れに荒れていたからだ。つい5日前に前原外務大臣が辞任を表明したばかりというのに、総理への飛び火。一体この政権はどうなってしまうのか。霞が関を取り巻く空気は、嫌が応にも浮き足立っていた。

 私の手元には、3月6日、7日に行われた「規制仕分け」の結果をまとめた分厚いファイルがあった。政局がどのように展開しようとも、必要な改革を宿題として積み残しておくわけにはいかない。とまで、果たして思っていただろうか。ともあれ、規制・制度改革のあり方や工程、体制を見直すために、他のスタッフとともにたたき台の取りまとめにかかっていた。けたたましい緊急地震速報が室内に鳴り響いたのは、そんな時だった。

 その瞬間は、予想される震源地と震度を見て、「またか」としか思わなかった。私の故郷である三陸沿岸では、震度5程度の揺れはざらにある。まして当時は、9日にマグニチュード7.2、震度5弱の地震が起きたばかり。ちょっと大きな余震なんだろう、と高をくくっていた。だが、小さな先揺れのあと大きく長い揺れが襲ってきたところで、そんな甘い考えは吹き飛んだ。テレビが床に落ち、資料や書類が飛び散り、悲鳴が飛び交う。これは津波が来る、みんな早く逃げろ。身を支える中で脳裏に浮かんだのは、小さな頃から教え込まれてきた故郷の教訓だった。

 こういう時は館内放送が流れるはずだが、聞こえてくるのは耳障りな雑音ばかり。ならばと室内の状況を確認すると、幸いに怪我をした者はなく、瞬時に落ち着きを取り戻している。窓の外に目をやると、多くの職員が駆け出していく。どうやら、この建物内は危険だとして日比谷公園への避難が呼びかけられたらしい。今でこそ万が一を考えて避難すべきだったかと思うが、あの時そんな余裕はなかった。すぐさま、館内の被害確認に向かわせ、外出しているスタッフに連絡をとらせ、同時に家族の安全確認を急がせる。それが精一杯の対応だった。

 自分も急がねば、と思ったときにはすでに15時をまわっていた。ところが、岩手の実家や会社も、両親や姉弟の携帯も、どこにも電話がつながらない。テレビでは3mの津波警報を伝えている。いやいや、この地震だと昭和三陸津波よりひどいんじゃないのか。焦りがつのるところに、京都の自宅から電話が入った。実家の父と連絡がとれ、逃げなきゃダメだと何度も言ったものの、「お母さんを迎えに行く」と言い残して電話が切れたらしい。元々津波の浸水想定地域なのに、この地震では余計にまずい、頼むから逃げていてくれ。そう願う私の目に飛び込んできたのは、隣市・釜石の魚市場が、まさに津波にのまれようとしている映像だった。(続く)

 

(初出:2013年11月11日 PHPオンライン衆知、一部加筆・修正し掲載)

【はじめに】

シリーズ:今だから話そう、大震災のあの時あの現場

 私は、内閣府に在職しているときに東日本大震災に直面し、大津波の被災地出身であることから特命を受け、2か月間現地に派遣されました。当時としては政府職員として最も長期の派遣であり、また三陸沿岸に常駐するほぼ唯一の現地対策本部要員でもありました。
 あれから約2年半。大震災の記憶が風化し始めているのではないかという懸念の一方で、復興のあり方もまた問い直されています。ならば、当時の記憶を呼び起こし、まさに現場で起きていたことを振り返ることで、現在の政策対応に、これからのまちづくりや防災に生かせるものがあるのではないだろうか。その思いから、当時の私の視覚に入っていたことを、経験した事実そのままに、ここに記録することにしました。
 元になるのは、官邸および被災者生活支援特別対策本部に現地から送り続けた「熊谷ペーパー」。あの時、あの地域、あの現場で起きていたことを、少しでも感じていただけましたら幸いです。

(当時は「全15回の連載を予定しています」としていましたが、最終的には全26回となりました。)

 

(初出:2013年11月11日 PHPオンライン衆知、一部加筆・修正し掲載)