異論耕論ときどきイクスカーション

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。そんな人の世だけれど、それでもなお、を貫いてみる。

【第1回】この地震はまずい、頼むから逃げていてくれ

シリーズ:今だから話そう、大震災のあの時あの現場

 

 2011年3月11日。

 あの日、中央合同庁舎4号館8階にある行政刷新会議事務局では、NHKの国会中継を見やりながら菅内閣の先行きを案じていた。参議院の決算委員会において総理の外国人献金問題が取り上げられ、審議が大荒れに荒れていたからだ。つい5日前に前原外務大臣が辞任を表明したばかりというのに、総理への飛び火。一体この政権はどうなってしまうのか。霞が関を取り巻く空気は、嫌が応にも浮き足立っていた。

 私の手元には、3月6日、7日に行われた「規制仕分け」の結果をまとめた分厚いファイルがあった。政局がどのように展開しようとも、必要な改革を宿題として積み残しておくわけにはいかない。とまで、果たして思っていただろうか。ともあれ、規制・制度改革のあり方や工程、体制を見直すために、他のスタッフとともにたたき台の取りまとめにかかっていた。けたたましい緊急地震速報が室内に鳴り響いたのは、そんな時だった。

 その瞬間は、予想される震源地と震度を見て、「またか」としか思わなかった。私の故郷である三陸沿岸では、震度5程度の揺れはざらにある。まして当時は、9日にマグニチュード7.2、震度5弱の地震が起きたばかり。ちょっと大きな余震なんだろう、と高をくくっていた。だが、小さな先揺れのあと大きく長い揺れが襲ってきたところで、そんな甘い考えは吹き飛んだ。テレビが床に落ち、資料や書類が飛び散り、悲鳴が飛び交う。これは津波が来る、みんな早く逃げろ。身を支える中で脳裏に浮かんだのは、小さな頃から教え込まれてきた故郷の教訓だった。

 こういう時は館内放送が流れるはずだが、聞こえてくるのは耳障りな雑音ばかり。ならばと室内の状況を確認すると、幸いに怪我をした者はなく、瞬時に落ち着きを取り戻している。窓の外に目をやると、多くの職員が駆け出していく。どうやら、この建物内は危険だとして日比谷公園への避難が呼びかけられたらしい。今でこそ万が一を考えて避難すべきだったかと思うが、あの時そんな余裕はなかった。すぐさま、館内の被害確認に向かわせ、外出しているスタッフに連絡をとらせ、同時に家族の安全確認を急がせる。それが精一杯の対応だった。

 自分も急がねば、と思ったときにはすでに15時をまわっていた。ところが、岩手の実家や会社も、両親や姉弟の携帯も、どこにも電話がつながらない。テレビでは3mの津波警報を伝えている。いやいや、この地震だと昭和三陸津波よりひどいんじゃないのか。焦りがつのるところに、京都の自宅から電話が入った。実家の父と連絡がとれ、逃げなきゃダメだと何度も言ったものの、「お母さんを迎えに行く」と言い残して電話が切れたらしい。元々津波の浸水想定地域なのに、この地震では余計にまずい、頼むから逃げていてくれ。そう願う私の目に飛び込んできたのは、隣市・釜石の魚市場が、まさに津波にのまれようとしている映像だった。(続く)

 

(初出:2013年11月11日 PHPオンライン衆知、一部加筆・修正し掲載)