異論耕論ときどきイクスカーション

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。そんな人の世だけれど、それでもなお、を貫いてみる。

東京オリンピック・パラリンピックの開催可否はレガシーでこそ語れ

東京オリンピックパラリンピック大会の開催が揺れている。言うまでもなくCOVID-19(新型コロナウイルス)の世界的な流行によるものなのだが、日本政府の感染対策への不信感から大会遂行能力に疑いの眼が向けられ、不透明感が増幅している。加えて、「何がどうあっても開催してみせる」という強い信念が、国民生活に犠牲を強いるかのような言動・行動となり、アスリートファーストという理念への誤解も招き、とりわけ国内の不信感に拍車をかけていることは間違いない。

 

主催者であるIOCはもとより、組織委員会をはじめとする大会関係者が、オリンピック・ムーブメントの頂点である大会開催に向けて奔走することは理解できる。熾烈な招致競争を勝ち抜いて(その過程では疑惑が指摘されているものの)開催地となった東京都や国が、その存在価値に陰りを落とすような最悪の事態は避けねばならないという思いも、わからないでもない。

 

だとするならば、間に合わせの感染対策で強弁するのではなく、「東京2020大会は、単に2020年に東京で行われるスポーツの大会としてだけでなく、2020年以降も含め、日本や世界全体に対し、スポーツ以外も含めた様々な分野でポジティブなレガシーを残す大会として成功させなければいけません。」とした原点に立ち返り、その考えを体現する大会が開催可能であることを、事実をもって説明すべきだ。現在の組織委員会と東京都には、そうした点で国民・都民と積極的にコミュニケーションをとりながら、理解と機運醸成を図るという姿勢が欠如している。

 

オリンピック憲章では、オリンピック・ムーブメントにおけるIOCの使命と役割の一つとして「オリンピック競技大会の有益な遺産を、開催国と開催都市・地域が引き継ぐよう奨励する。」と掲げている。これに基づき、開催都市にはオリンピック・レガシーを考慮した招致計画が求められ、東京都と大会組織委員会はそれぞれにレガシープランを策定し、大会前からさまざまな主体によって取り組みが推進されてきた。

 

ところが、東京都オリンピック・パラリンピック準備局のWEBサイトの「2020年に向けた東京都の取組-大会後のレガシーを見据えて-」を見てみると、2018年2月のPR版(増刷版)の掲載以来、更新されている様子がない。同様に、大会組織委員会のWEBサイトの「アクション&レガシー」ページでも、2019年7月のアクション&レガシープラン2019の掲載以来、何らの情報提供も行われていない。「計画づくりには熱心だが、ターゲット&ゴールは必ずしも明確ではなく、実施評価は曖昧なままやり過ごされる」のは、日本の行政組織によく見られる悪癖の一つだが、オリンピック・レガシーも開催の方便でしかなかったのではないかと勘ぐりたくなるような状況である。

 

問題なのは、開催が延期されたこの1年間に、新型コロナウイルス感染拡大を乗り越えて取り組まれてきたアクションとその結果が外部からは全く不明で、既に開催をあきらめて何もしていないかのように受け取られてしまう愚を、自ら冒していることにある。確かに、アクションの実施そのものが困難であったかもしれない。それでも、例えばコロナ対策下でも実施に至らしめた努力と工夫は、おそらく大会後にも続くであろうwithコロナのライフスタイルにおいても有益な遺産となり得たであろう。だが、都や組織委員会等がそうした点に注意を払いながら機運醸成を図り、開催実現に向けて知見を集積させてきた形跡はほとんど見られない。

 

大会と前後して取り組まれる予定だった関連プログラム等についても同様に、実施可否とその意義の達成水準について、ほとんど明らかにされていない。例えば、オリンピック村の開村から閉村まで催されるはずの文化プログラムは、どの程度可能なのか。事前合宿等のホストタウン事業は、相手国の事情もあって困難さが増しているなかで、それでもなお交流の価値を創出するためにどれだけの労力が傾けられているのか。重要なのは、そうした過程を見えるようにしながら理解と支援を求めることだと思われるのだが、必ずしもそうなってはいない。

 

ただでさえハードルの高い開催実務に加え、大会延期と新型コロナ対策の影響により、それどころではないという状況もよくわかる。だが、3兆円を超えるとも言われる公費を投入している東京大会だからこそ、国民生活そのものが1年半前からは激変しているからこそ、そうした現在だからこそ国民に対してオープンに、積極的なコミュニケーションを取ることが望まれる。それも、従前通り結論が出てから決定事項として報告するのではなく(それでは機を逸する)、ターゲットとゴールを明らかにしつつ進捗と実現可能性を客観的に説明し、残されたわずかな時間のなかで最大限の理解と信頼を得ていくことが重要だ。仮に、これまでの想定はともかくとして、大会を開催してもなおレガシーの形成が十分には図られない(ハードは既に整備されているから、開催するか否かには影響されない)のならば、開催返上もやむを得ないだろう。

 

どのような新型コロナ対策を講じれば開催できるかという点にばかりに焦点を当て、いきおい縮小均衡の考え方に陥ってオリンピック・レガシーの形成・継承という価値が毀損してしまっては、大会の開催そのものを危うくするばかりか、例え開催にこぎ着けられたとしても失敗のそしりを免れない。皆に祝福される大会を待ち望んで来たアスリートの努力と将来を思えばこそ、実現し得るオリンピックの価値とレガシーをもって、国民に向き合って欲しい。

 

なお、日本政府の新型コロナ対策そのものが開催リスクとなっている以上、その立て直しが喫緊の課題であるとともに開催のための必要十分条件であることは言うまでもない。

(念のため、本稿はあくまで個人の見解であり、所属する組織等とは一切関係ありません。)